明治維新150年の日本

 来年は明治維新から百五十年の節目の年に当たり、NHKは大河ドラマ「西郷(せご)どん」で維新三傑の一人、西郷隆盛を主人公に幕末維新から明治六年の政変、そして西南戦争を描くことになるだろう。白村江の敗戦の後、天智・天武天皇が統一国家の建設を急いだのと同じように、欧米列強の脅威にさらされた幕末の日本は、近代国民国家の国づくりを目指した。明治政府の廃藩置県や地租改正、徴兵制など、その最も困難な部分を主導したのが西郷である。

 しかし、その後反乱を起こして国賊とされ、明治天皇の意向で名誉回復がなされたのは十数年後のことである。明治の栄光と悲劇が交差するのが西郷の生涯と言えよう。

西郷隆盛の遺産  国民的人気の高い西郷だが、歴史家の評価は二分されている。肥後出身で永平寺で修行し、日本仏教史の権威でもある圭室諦成(たまむろたいじょう)は、一九六〇年の岩波新書『西郷隆盛』で、西郷を時代遅れの封建制の復古主義者と断罪している。「おくれた郷中(ごじゅう)教育によって排他的な郷党意識と独善的な政治理念を骨のずいまでたたき込まれた。…このような反近代性のゆえに、かれは薩摩武士団の頭領と仰がれ、その野望の担い手として生涯をささげつくした」と。

 それに対して、同じ東大文学部国史学科卒の坂野潤治(ばんのじゅんじ)東大名誉教授は二〇一三年の講談社現代新書『西郷隆盛と明治維新』で、「西郷は『攘夷』論にあまり関心を持たない『国民議会』論者であった…さらに西郷は、『封建制』を廃して、欧米列強から近代的統一国家として認められることをめざして…『廃藩置県』を断行した」と、西郷の近代国家に対する見識を高く評価し、「『議会制』を導入し、封建制の打破に尽力した最大の功労者」だとしている。

 近代国家の国民を形成する上で大きなモメントとなった、明治五年からの明治天皇の御巡幸を主導したのも西郷だとされる。立憲君主国の先頭に立たれる姿を国民の前に示し、国民の天皇としての歩みを始められたのである。それに代表される天皇ご自身の自己形成が、今に続く近代日本の歴史でもあった。

 明治の代表的なジャーナリスト徳富蘇峰が「明治の光」だと称賛している内村鑑三が、明治二十七年に英語で出版した『Japan and Japanese』(代表的日本人)で最初に取り上げているのが西郷である。映画「ラストサムライ」はこの影響で誕生したもの。

 内村によると、若い西郷が引かれたのは王陽明の陽明学だが、それはキリスト教に類似していて、長崎で聖書を初めて読んだ高杉晋作は、「これは陽明学にそっくりだ」と叫んだという。  西郷の思想を代表する言葉「敬天愛人」は、陽明学から来たものと思われがちだが、真相は明治四年に中村正直の翻訳で出版され、ベストセラーになったスマイルズの『西国立志編』である。当時の若者は、西郷が影響を受けた水戸学の藤田東湖らの本より、はるかに素晴らしいと評価していたという。そこで説かれていたのは自主独立、自存自衛の近代国家の精神である。

 西郷の生涯を概観して最も印象的なのは、庄内藩とのかかわりである。戊辰戦争で庄内藩を降伏させた薩摩軍は、予想外の寛大な措置で庄内藩士たちを感銘させた。明治二年、政府の黒田清隆を訪ねた旧藩士が感謝の言葉を述べたところ、黒田はすべて総指揮官の西郷の指図に従っただけだと答えた。その西郷は、自分の役目はすんだ、中央の政治は大久保や岩倉、木戸に任せると言って薩摩に帰っていった。

 その後、旧庄内藩は藩士ら七十人余を鹿児島に留学させて、西郷の教えを受け、その言葉をまとめて『大西郷遺訓』を発行している。著作を残さなかった西郷の、それが貴重な言行録となった。そして、山形県酒田市には南洲神社が創建された。長州への恨みがいまだに解けない会津と比べ、西郷の人柄がうかがえよう。

自主独立、自存自衛

 明治維新から百五十年を経過し、日本は自主独立、自存自衛の国になっただろうか。国民は独立自尊の気概を持っているだろうか。来年はそれを深く考える年になりそうである。