高齢期を「幸せ」に生きる

 

 高齢者が原因と思われる交通事故などが起きるたびに、高齢社会は問題が山積のように思えてくる。個人的にも、社会的に活躍して、記憶力、判断力に優れていた人たちの多くが、次第に呆けていくことに恐怖心を持っている。

 しかし、世界のどの文化を調べても、生活の満足度は年齢に応じて上がっているという。それは慢性病患者たちでも同じで、二〇代よりも六〇代の方が満足度が高いのである。人間は幸福を求めているので、自然的にも意図的にもそうなるからだろう。

 そこで注目したいのは、老年精神医学が専門の松下正明・東京都健康長寿医療センター理事長の、「アルツハイマー型認知症は病気ではなく、老耄(ろうもう)の現れである」との説である。

 

認知症は病気ではない

 世界の先進諸国の多くは高齢社会に突入し、認知症対策が喫緊の事態となっているが、その最先端をいく英国での認知症施策のキャッチフレーズは「認知症とともに生きる」である。

 松下氏によると、アルツハイマー型認知症は独立した病気ではなく、通常の脳の老化現象が加齢相当以上に促進された現象にしかすぎないという。その根拠は、脳変化のメルクマールとなるアミロイドたんぱくの沈着(老人斑)、神経原線維変化、神経細胞変性・消失の三大病変は正常加齢脳にもみられること。そのため、アルツハイマー型認知症は脳の病気ではなく、脳の老化現象の促進された状態であるという意見は、日本では少数派だが、欧米では常識だという。

 日本の認知症の割合は六五~六九歳で3%、七〇~七四歳で4%、七五~七九歳で13・5%、八〇~八四歳で21・8%、八五~八九歳で41・4%、九〇~九四歳で61・0%、九五歳以上で79・5%である。一〇五歳まで生きた聖路加国際病院の日野原重明さんにも八〇代の頃から認知症が見られたことは、弟子たちの多くが知っていたという。それでも、周囲のサポートがあったので医師としての仕事ができたのである。

 沖縄のように敬老意識が強く、老人が温かく看護され、尊敬されている地域では、徘徊や幻覚、暴言・暴力など、いわゆる周辺症状が見られない限り、認知症であっても「老いの過程にある正常な人間」として周囲から見られているという。高齢者にとって暮らしやすい社会である。

 国際保健や地域医療の専門家で、東大医学部教授から国立環境研究所所長を経て、現在は看取り医として終末期の患者に向き合っている大井玄さんは、老耄は穏やかな死に至るために必要なことで、周りとの関係を良くしていれば、年を取って呆けても、症状を出さずに暮らすことは十分に可能だという。

 私たちは自分の経験と記憶から、脳が創った世界の中で生きている。仏教の唯識学の教えであり、唯識派の本山、奈良の興福寺には「手を打てば 鯉は餌と聞き 鳥は逃げ 女中は茶と聞く 猿沢の池」という和歌が残されている。同じ音を、それぞれの脳が違うように理解しているのである。

 大井さんはさらに、「その世界は、自分の誇りが最も保たれるような状態に創られている」と言う。だから、認知症の人には、誇りを傷つけるようなことを言うのは厳禁で、その言うことを否定せず、笑顔でやさしく接することが基本になっている。つまり、ユマニチュードである。

 

老耄になる意味

 「(人生の最終期に)看取り医になって一番よかったのは、人生の無常を実感しながら生活できるようになったこと」と言う大井さんは、老耄は死を穏やかに迎えるためにあるという。それが老耄になった人たちから教わったことだと。組織の長にいるより、患者に向き合う一医師になることを好んだ大井さんの生き方にも共感する。

 死に向き合うと死は恐怖の対象ではなくなる。その知見と体験を深めてきたのが、各宗教の伝統であろう。日常生活から死が見えなくなっている今の社会で、死を考えることから生の意味を深めるよう、人々に勧める社会的役割が宗教にはあるように思う。